昭和51年1月23日 朝の御理解



御理解第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うのも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」


お道の信心の進め方とでも申しましょう。それは、68節の次、69節にありますように「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。」というみ教えがございますように、金光様の御信心の素晴らしいところは、そういうところだと思うです。というて、なら、「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。」と仰せられるとこなどを頂きますと、非常に厳しく感じます。けれども、「厳しいけれども、有り難い」と言うところが、分からせてもろうて、ひたすらに信心を進めていこう、頂かせてもらおう、ということに腹が決まっとれば、決してむずかしことではない。またそういう、雨が降るから風が吹く時こそ、有り難いんだなあ。なるほど、そういう時こそ、身に徳を受けるんだなあ。というものを感じます。えー昨夜、ここへ出てまいりましたのが、昨日はちょっと早かったです。十時ちょっと前ぐらいでした。それから、休ませて頂いたら、あの、もう眠ってもうっておった。ところがもう、十二時まわっておったでしょう。フッと気がついたら、私の布団中に文男先生の中に入ってきて、一生懸命、足をもんでくれてるんです。あら、文男先生じゃったか、というわけです。あれが、普通だったら、もう来ましたけれども、もう先生が休んでいおられたから、もう帰りました、というとこでしょうけれども、まあ、それがなんとはなしに、うれしかったんです。眠っておるけれども、その眠っておる足を一生懸命、もんでおるわけです。それから、まあもんでもろうて、うん、終わってからしきりに喉が乾きますから、なにか、おビールかなんか頂きたい気がしたけれど、おビールがたまたま無かったから、なんか洋酒で水割りかなんか作ってくれ、と言いましたから、すぐブランデーを水割りに、あのしてくれました。それ一杯頂いておいしかった。でも先生、ブランデーよりも、だいたいウイスキーの方がおいしいとですもんね。しかも水割りよりも、あのコカコーラーで割ると、とてもおいしいですよ。って。そんならそげんしてくれ、ち言いましたから、たまたまそこへ、まだ口の切らない、あのサントリーの丸い、ためっていうんですか、あれがありましたから、それを口を切って、それから、コカコーラーは、すぐ、もう枕許に、いつも冷蔵庫の中に冷えておりますから、それで作ってもらったらなかなかおいしいです。先生もだいたい、あんまりお酒の方は頂かんのですけれども、おいもんですから、二人でしきりに頂いて、結局、コカコーラー二つ空けとりますから、、やっぱりだいぶん量としては飲んでおるわけなんです。えー丁度、私が、あの昨日、福岡のここにもご縁がございます、「もりした」産婦人科の院長さんの話しがでました。それも、昨日ちょうど、十時か十一時頃ですか、私、あの、たまたまテレビを見させて頂いたら、その「もりした」さんのお話しがあっておるところでした。それが、どういうようなことであったかというと、えー、異常セックスについて、というお話しをなさっておられました。まあ、その道のオオソルティーとでも申しますか、べてらんの方達が、なんなん女学院の学院長と婦人の方達を交えてのお話し。普通では聞かれない。普通では、なかなか口にもしたくない。といったような話しがあっとりましたから、私も興味を感じてから聞かせて頂いた。えーあちらの奥さんは、ここにちょいちょい参って来ます。文男先生のお導きで。もう福岡では、産婦人科院長さんとしては、大変、有名な方だそうです。それに、実際は、椛目時代に一度参っておられる。それから、こちらに見えて参りましてからも、一回参って、お取次ぎは頂かれなかったけれども、後ろから私の話しを聞いて下さり、若先生の御祈念を頂いて、はあ、本当にあの若先生の大払の声を聞かれてですね、大変素晴らしいと言うて、その音調というですかね、その中に、あれはなんかひとつの演出があるのか、とまでに言われるぐらいに、その感心された話しを、昨日、文男先生がなさっていました。で、私もそんな訳で、その間接的にはお取次ぎさせて頂いておりますけれども、お目にかかったことは、昨日、テレビで初めてだったわけです。その方が、まあ、いわゆる異常セックスについての、まあ、色々なお話しをなさっておられました。色々なお話しの中に、とにかく夫婦間の間にあることはね、内の主人は、どうもおかしいんじゃないだろうか、と思うことであっても、夫婦間のことであったら、それは決して異常ではない、ということを話しておられました。私は、本当に素晴らしいことを言われるなと思うたです。ね。「夫婦間のことであったら、それは、どういう例えば、事であっても、それはまともだと。それは決して異常ではないのだ。それを世の婦人達は、内の主人は、どうもおかしい、というような事から、いわば三角関係のもとを作りのは、そういうところから出来てくるのだ。」というようなお話しをなさっておりました。私、その話しを聞きながら、私は、ここにお参りをして見える、ある婦人の御信者さんのことを思いださせて頂いた。えー、その方の御主人は、○○中学の校長さんをなさっておられる。夫婦もなかなか円満で、娘さんが次々に四人も生まれなさった。ところが、その四人目の娘さんができられて、気がつかれた時には、もうすでに、御主人には二号さんがあった。しかもそこには、息子さんが生まれておるということであった。それでその、その息子さんが、例えば、うんなら、跡継ぎをされるかもしれん、という、まあ緊迫したというか、まあ切実な願いのもとに初めて、その土地の教会に金光様の御神縁を頂かれたのが、その事が初めてであった。そん時に、そのことを悩みを、その時の教会の初代教会長である先生にお取次ぎを願わせて頂いたら、その教会長の先生が言われることに「昼は、けん婦人なからなければならないけれども、夜はお女郎さんになったつもりで」と言われた。もう、びっくりされたそうです。その話しを聞かれてから。はあ、金光様の信心ちゃもう、なんという広い、素晴らしい御理解だろうか、と思うたっち。ね。そういう所に、かけておったことに、例えば、そういう結果が生まれておることに気付かせて頂いて、まあ、それこそ頑張られたわけです。おかげを頂かれてね、息子さんができられた。ね。しかもその、現在、一人息子さんですけれども、素晴らしい親孝行な息子さんです。そういう、話しを、私はフッと思いださせて頂いたんですけれども。ね。金光様の御信心というのはね、「人に言うように拝め」というところをね、もう本当に素晴らしいことですね。決して金光様の御信心をしとるから、難しいことをせなならん、言わんならん、こげんしてはならん、ああではならん、ただひたすらにね、「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。」と仰せられる、そういうところも人生の中にはあるけれども、そこをひたすらに、というところが素晴らしいです。

私は、今朝は栄四郎と直子と二人から、「親先生、親先生」と起こされて気がついた。もうそれこそ前後、深くにそんな訳でしたから、休んでます。この広い廊下を、本当に廊下いっぱいに今日は、あの歩いてきておるんです。もう千鳥足でここに出て来てるんです。こちらに出て来てまいりましたら、初めてでしたけれども、時計が、あの私の、あの電子時計ですけれども、それが切れておるかなんかで、うん、まあ止まっとったかなんかでしょ。だから、それでも(  ?  )もうろうですね、今朝からも。そんで、そん時計を、あの、しかし、お広前ん、時計に間違いがないように、お前達、気つけておってくれよ、と言うて、私は、あの椅子に腰掛けながら、あーいわば、いわゆる、もうろうたる気持ちで、今日の朝の御祈念の時間に、それでも、やはり一秒だって間違うことなしに、出らして頂いて、そして願うことは願う、お礼を申し上げることは、お礼を申し上げさせて頂いておるけれども、やはり酔っておったなあ、と思うことは、入れ歯をね、取ってしもうてから、喉(  ? 笑い )どうも口元がおかしいですもん(笑い)。そしたら入れ歯を取ってから御祈念してるんです。やっぱり酔っておるんですよね。なら、それでも、うんなら、一分間でも間違うことなしに、なら御祈念だけは、ちゃんと終って、五時の御祈念には、若先生に、うん、バトンタッチが出来るようにおかげを頂いておるということなんです。難しいことじゃないです。ただし、ただ、信心にはもう「ひたすらに」ということが大事だということでございます。

昨日、えー、いつも三時からの研修を皆さん、させて頂いて、最後に「皆さん、疑問になったことはなかったか。」という、まあ質疑応答です。したら昨日は、ああ、末永先生が、大変、難しいことの質問をいたしました。私は、その質問が、あんまり難しいことですから、よく分からなかったけれども、けれどもね、と言うて話しをさせて頂いたことでしたけれども。これは、先日、幹三郎が、ああ当番を、夜の御祈念の当番をさせて頂いて、あの人の話しは、なかなかえらい、その深いです。なかなか哲学的ですね。けれども、実にお話しが下手ですから、もうタドタドとしておるんです。それこそ、聞きながら私、こういう句が出来た。「説教の、つたなけれども、ひたすらに」と。「説教の、つたなけれども、ひたすらに」です。本当に素晴らしいことの言葉を使うて、それこそ水の流れるように話したところでです、その人の内容にもないものが、話されたって心打ちません。不思議です。けれども、ひたすらに自分自身も願い、求めておるということをです、タドタドしいながらも、人に伝えておるという、その様を、まあこういう句にしたわけです。「説教の、つたなけれども、ひたすらに」と。だから、私は末永先生にこの句を示しました。「どんなに難しい、分からないことがあってもね、末永先生。このひたすらに求めていくならばです、今ここで説明を聞いて分かるよりも、もっと素晴らしいことが分かるだろう」と言うてお話しをしたことです。ね。私共の、まあ信心の、今日は、まあ、普通でいうなら、もう頭も上がらんというほどしのことじゃなかろうかと思うです。おかげで子供達が二人、おかげでいつもの時間にちゃんと、やって来てくれて、もう両方から(笑い)「親先生」と言われて、ハッと気がついた。そして、頭がブラブラしておるし、もう、それこそあの、洋酒は足を取るということを、今日、初めて聞きました。あの体験しました。あの、もうそれこそ広い廊下をね(笑い)千鳥足で、後ろから付いてくる子供達が、びっくりしただろうと思うぐらいに、そのヨロヨロとしながら、ここに出て来ておるわけなんです。ね。それでも、私の心ん中にある「ひたすらに」というものがありますから、なら、やはり願うことは願う。お礼を申し上げるところはお礼を申し上げ、なら、朝の御祈念に、なら、一分一厘だって間違うことない、おかげを、まあ、頂かせて頂いて、今日、私は御祈念の半ばに、あの感動して涙がこぼれてしょうがなかったんですけれども、お礼もお願いも、それこそ酔眼もうろうとした中ですから、あと矢先ですけれどもです、そのひたすらな思いを神様が感じ取ってくださったんじゃないでしょか。もう、涙が流れてしょうがなかったです。ね。その「ひたすらに」を神様が受けて下さるんです。私は、この68節の、今日は、まあ、今日の私の体験からです、なるほど、あの69節にある「信心はみやすいもの。難しいものじゃない。」ということをです、ね、その芯には、やはり、ひたすらなものがなからなければならない。そして、こうしてはいけない、ああしてはいけない。ね。いわば「もりした」産婦人科の先生のお話しを聞きながらです、ね、例えば、うん、夫婦観のことでもね、なるほど、そういう頂き方をするならば、有り難いことになり、次にそのお話しから、まあ昔の連想させて頂いて、現在も熱心にお参りをしておられる、その方が、初めて御神縁を頂かれて、ね、夫婦間の、いわば三角関係の、しかも、相手の方には、子供さんが、息子までができられたといったような中に、初めて御神縁を頂かれて、そして教えをもとに、おかげを頂かれたところにですね、その教えに基づくということもです、「はあ、金光教の信心は、広いな深いな、なるほど見易いな」というものを感じさせれることでございますけれども、ね、そこから、いわば一粒の種というか、息子さんをおかげを頂かれ、今日、やはりおかげを受けておられるという、その話しの中からです、なるほど、信心は、みやすいものだ。けれどもやはり「ひたすらに」というものがなからなければ、信心にはいけないということ。しかも「人にもの言うとおりに願え」。もう平易であり、もう平凡といやあ、これほど平凡な信心はなかろうと思うぐらいの中にです、貫かせて頂く、ひたすらに神様を願い求めさせて頂く信心がです、ね、あの必要であるということを今日は聞いて頂きました。どうぞ。